Story about Our Mom

先日 義姉である娘と義祖母である母親に看取られて ひっそり亡くなった私の義母について 少しお話させてください。

彼女を知っていただくために、まず経歴から話そうと思います。

彼女は20代前半に夫の父親である人と結婚。男女2児をもうけましたが 私の夫が11歳のとき 正式に離婚しました。1人で 2人の子供を育てて行くために 彼女は 離婚が正式に決まるまで 毎夜美容学校に通い 美容師の資格を取得。その後 離婚してからは 昼は会計士として地元の会社に勤め、夜は自宅を改装した 美容院で 働き 子供達を大学まで 行かせるため 昼夜労を惜しまず働き続けたと言います。養育費も慰謝料も 一切もらわず 夫の話しによると 生活保護を貰える資格があるほど貧しかったそうです。しかし 1度も 援助を受けたことはなく立派に子供達を大学院まで卒業させたのです。葬儀の手続きをしている時 牧師さまからそれぞれ 彼女について、何が一番心に残っていたかと聞かれました。その時、義姉が言いました。


  貧しい生活であったにも かかわらず、感謝祭や クリスマスのテーブルには 必ず見知らぬ恵まれない人達、家族のいない1人暮しのお年よりがいつも座っていて、実の子供である自分達は その人達が 食事を終えるまで食事することも許されなかったそうです。皆がお腹を満たしてから やっと食事にありつけたといいます。今振りかえると 結婚当初 ホリデーに夫の実家に帰った折 必ずドロシーという女性が私達家族と一緒にテーブルを囲んでいたことを思い出します。彼女も近所に住む ひとり暮らしの女性だったのです。お年よりだけではなく 子供達にも同じく愛の手を差し伸べていました。彼女の家には いつも山積みにされたおもちゃや絵本がありました。何も知らない私は てっきり孫達へのプレゼントだと思っていましたが いつになっても送られて来きませんでした。数年間これがずっと不思議でたまりませんでした。それらのおもちゃはToys for Totsという恵まれない子供達にプレゼントを贈るというプログラムのために 買い溜めたものだったのです。誰にも知られる事はなかったけれど、町の子供達にとって 彼女はサンタさんだったのです。

 ひとりっ子であった 子供の頃から遊び相手だった動物に対しても愛情を絶やさず 幼い頃から近所の動物を拾ってきては 大事に育てたそうです。亡くなるまで 一緒に暮らしていた猫は 生前の彼女の話しによると 野良猫らしく どうやら 体が他の子猫よりずっと小さかったため  他の猫に攻撃され 片目を失明しており そのままでは 外ではとても暮らしていけないだろうと 彼女が家に入れて 面倒を見てきたのです。余談ではありますが この猫は とても人なつこいとは言えず 結局 最後まで 義母にさえ 抱くことはできなかったと言う事です。同じ飼うなら 膝に乗ってくれたり ちゃんと飼い主を認めてくれる猫が良いだろうにと思ったのは 私だけだはありません。しかし そんなことは彼女にとってはどうでも良く 心からこの猫を愛しておりました。また 自然保護や 動物保護にも 力を注いでおり 自分は 贅沢をしなくても 良いからと いろいろな団体への寄付を欠かしませんでした。アニマルシェルター、動物園の赤ちゃん達の名づけ親プログラム、ワイルドライフ協会、ヒューメインソサイティーなどなど・・・その数は 一体いくつであったか 今となっては知る由もありません。

 そんな彼女が病床に臥すようになったのは 6年前、卵巣ガンが見つかってからでした。家族の愛情と彼女の強い意志に支えられ 見事に克服したにもかかわらず 関節炎が原因で幾度となく繰り返していたヒップの移植が うまくいかずついには 歩けなくなったのが4年前でした。60代前半の若さで 家から 1歩も1人では出ることもできず とうとう車椅子にさえ乗れなくなったのです。彼女に 生きる希望を与えるためもあり 私は当時 生まれてきた次女に彼女の名前を付けました。亡くなってから 聞いたことですが これは 彼女を たいそう喜ばせたといいます。そんな彼女にとっては 辛い時期もカタログを取り寄せては 孫達や私達、そして 恵まれない子供達へのプレゼントは 忘れませんでした。動物や自然を守るための寄付も。
  そんな彼女の状態が 急に悪化したと聞かされたのは 私達が マサチューセッツの家を引き払いテキサスに引っ越すという3日前でした。ガンが再発したと言うのです。数ヶ間 足が痛い、痛いと繰り返し 医者に相談しても あなたはプロではない、私達はプロ。そんな痛みはなんでもないと取り合ってもらえず ある日 とうとう食事も受けつけなくなりました。脱水症状を起こしてやっと 病院に受け入れてもらい、検査の結果は胃がんの末期、すでに腹水が広がっているという状態でした。そんなばかなことがあるでしょうか。あれだけ 本人が体調がおかしいと訴えているたのだし 看護婦は毎月、採血に自宅を訪れ、血液検査はしていたはずだったのに。これでは 医者に見殺しにされたも同然です。しかし、義祖母に聞いたところによると そんな状態の中でも 義母は自分の死後 病院への献体を望み 書類にサインをしていました。恨みごとひとつ言わなかったそうです。結局 義祖母の強い希望で 何もしてくれなかった医者や病院に 彼女の体を渡すことはできないと 献体はされませんでした。私も それで良かったと思っています。亡くなる1ヵ月前 引越しの途中 たった1晩ではありましたが 実家に立ち寄ることができ 生まれたばかりの3女を見てもらえたことは、今となっては せめてもの慰めになりました。

 感謝の心を忘れないこと、動物を愛すること、家族を愛すること。やりたいと思うこと なりたいと思うもの、信じる心があれば 絶対に叶うということ。女性だからといって できないことは決して無いということ。体の不自由な人がいれば 手をさしのべてあげる心を持つということ。恵まれない人には 己のできる範囲で 分かち合えるものがあれば 分かち合うということ。両親を愛するということ。子供達には 無条件の愛情を注ぐということ。人の悪口を決して言わないこと・・義母の息子である夫は 見返りを期待せず 人を助けることができる人です。また 動物達を愛し 極端な話ですが 蝿さえも 生きたまま外に逃がしてやるような人間です。彼が友達の悪口を言うのを聞いたことは 1度もありません。こうやって 義母の教えは 娘達にも受け継がれて行って欲しいものです。生前 教会に行くことはありませんでしたが 彼女は本当のクリスチャンであったと思います。もう 痛みと戦うことはありません。今ごろ 天使になって 笑顔で 私達を 見守ってくれているはずです。彼女が守ってくれるから もう怖くはありません。

夫は 4歳の娘に言いました。「Grandma is in our heart」娘は胸に手をあてて グランマ−はここにいるのと話します。私達が結婚を決めた時 両手を広げて 迎えてくれた義母。最後に会った時 なぜかあの時だけ体裁が悪くて Hugもキスもできないでいた私に 叱るような声で「〇〇、ここに来なさい!あなたから Hugをもらっていないわよ!」といたずらっぽく言って 抱きしめてくれた母。私達が 家を去るとき ベッドの中で 泣いていた母。こんなに早くに逝ってしまうなどと 思ってもいなかったから お見舞いの手紙も 電話もできないままでした。ごめんなさい。でも 今からもずっと 私は あなたの娘です。いつも お誕生日や母の日、クリスマスには 両手に抱えきれないほどのプレゼントを下さり 忘れずに 「娘へ」というカードを送ってくださった母。夫と喧嘩をしたとき 私が電話で愚痴を言うと 忍耐強く聞いてくださった義母。私にとっては 本当のアメリカの母でした。13年間 ありがとうございました。夫を 他人の痛みがわかる すばらしい人間に育ててくださって ありがとうございました。


  義母の人生は とても辛いこと続きでしたが 彼女が手を触れたすべての人の心に これからも 暖かい笑顔とやさしさを残してくれたと信じています。

 私事ですが どうしても 彼女が生きていたという証を残したく、文章にしました。読んでくださった方 ありがとうございます。

合掌

2000年8月12日 リトルダーリン記

もし 母が関わっていた主な活動に興味があるという方がいらっしゃいましたら 
是非 下記のリンクを訪ねてみてください。

Toys for Tots
National Wildlife Federation
American Cancer Society
The Humane Society

真っ赤なバラが大好きでした・・・・

追記:義母の後を追うように、翌年 義祖母は、誕生日を前に92歳の生涯の幕を閉じました。
「My job is over.私の仕事は終わった。」と言い残して。彼女自身も交通事故による後遺症から背中の痛みが激しく歩行も困難でした。80歳代後半から 義母が亡くなるまでの 人生最後の数年をひとり娘の看病にだけ生き、義母亡き後は 娘無しでは生きたくないというのが口癖になり 灯火が消えていくように少しずつ衰弱して 眠るように旅立ちました。
彼女自身、幼いときに母親を失い、義母といつも二人三脚で生きていました。
天国でも、生前ふたりがしていたように、親子で旅行を楽しんでいることでしょう。(2001年春)

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